コロナと若者の関係ー社会学から考えるー

2021年11月03日・社会 ・by Newsdock編集部

「若者が」とみんな言うけれど

「若者が自粛しないから」

「大学生の会食でクラスター発生」

「若者のワクチン接種が広まらなくて……」

この2年間で、メディアで嫌というほど目にしてきた、若者が主語のコロナ関連のニュース。感染が収束しつつある今日、若者とコロナを関連付けるニュースを見て、気を揉む機会は減っていると思います。しかし、どうして若者とコロナが関連づけられてきたのか、なんとなく忘れ去らないためにも、今だからこそ振り返ってみませんか? 事実を伝えているニュースでも、コロナについて若者というラベル付けがされてきたのは確かだと思います。例えば、「中高年の会食でクラスター発生」といったニュースはあまり聞いたことがないのではないでしょうか。若者がワクチン接種に積極的でないというニュースについては、渋谷のワクチン接種会場の前に若者が長蛇の列をなしたことから、摂種に積極的な若者も存在することは明らかだと思います。 とにかく若者は何かと取り沙汰され、批判の的とされやすい存在でした。 「自粛している若者は、こうして一部の若者と一緒くたにされて、嫌気がさしています。みんな、若者に気を遣ってください。」今回は、こういう訴えがしたいわけではありません。 こうして若者が排除された世の中の仕組みを、収束しつつある今だからこそ、じっくり考えてみたいのです。

今日の社会

危険の芽は事前に摘みたい

今日の社会を端的に表すなら、こんな表現になります。

もう少し具体化すると、 犯罪が起きてから対処するのではなく、犯罪が起こらないように、事前に犯罪に関わりそうな要素を排除しようとする態度が、今日の社会には通底してみられています。 これは、保険統計主義とも呼ばれており、社会学者ヤングが著書『排除型社会ー後期近代における犯罪・雇用・差異』のなかで触れているものです。

こうした社会を特徴付けるのは、例えば、監視カメラ。犯罪の証拠集めにも使用されていますが、あれが犯罪の抑止力として働いているのは明らかでしょう。効果も絶大で、防犯カメラによって、半径50m以内なら20%程度、100m以内なら10%程度の犯罪を抑制するとわかっています。しかし、見方を変えてみると、こうして犯罪という 「悪い行動」をとる人間を悪だとして、彼らの自由を奪っているものと表現をすることもできます (もちろん、犯罪者を擁護する気はさらさらないですが)。そして、果たしてこの「悪い行動」は、法に反する行為のみを指すでしょうか? 今日の社会で、犯罪を犯していないものの、同調圧力によって自由を奪われている人々がいるのではないでしょうか?

コロナと若者

コロナの話に戻って考えてみましょう。こうして、事前に災いとなりそうな要素を取り除く、排除性の高い今日の社会で、若者はどんなポジションにいるのでしょうか。

緊急事態宣言で、外出する人間はネットやメディアによって激しく批判され、中にはナンバープレートを見ての差別や、張り紙貼りなどの影響が発生しました。

感染症ゆえに生じた、外出=「悪い行動」とする風潮。先ほどの問いかけに対応する形になりますが、外出という行為は、なんら法律に反していません。明らかに、犯罪ではありません。しかし、外出すると、主に自粛警察と呼ばれる人から激しく非難されました。こうして「逸脱してしまった人」の行動が、「逸脱する可能性のある人」の外出を抑止していた点は事実としてあるでしょう。 このように、 緊急事態宣言下で 「外出してしまった人」が 、自粛警察やメディアにより社会的に糾弾されることで、 「外出する可能性のある人」の発生を防いでいたのです。こうして、未然に外出を抑止する姿勢は、排除型社会の一種だと呼べると考えます。

以上のように、今日の社会で外出は犯罪同様に「悪い行動」となり、これを起こしそうな人は、事前に摘み取るべき「危険の芽」となったのです。それでは、外出という「悪い行動」を取りそうな、「危険の芽」とされるのは誰だったのでしょうか。

「危険の芽」の推測

事前に危険を摘み取りたい社会とはつまり、その危険を起こしかねない存在に対し、敏感な社会なのです。そして、現実が教えてくれるように、若者こそがこの「危険の芽」とされたのです。ところで、犯罪に関して「危険の芽」とされるのはどんな人でしょうか。なんとなく人相が悪い、前科者、周囲の人から態度が悪くて不審だ、などと噂されている人が挙げられるでしょう。何が言いたいかというと、こういった、ある程度の根拠(エビデンスでは決してない)のある人が、犯罪に関して「危険の芽」として警戒されるのではないか、ということです。これらの根拠は、どれもある程度、日々の中で蓄積されてきたものだと思います。

では、コロナだったら? 突然大流行した感染症を前に、一体どんな根拠を持って、どんな人を、外出しそうと考えて「危険の芽」と考えるでしょうか?  外出しそうな人相の人なんているわけありません。外出の前科なんて、全員が持っていることになります。つまり、犯罪のように、ある程度の根拠を持つことはできないことになりますが、それでも、こうした社会であるのだから、「危険の芽」をなんらかの形で考えていくことになるわけです。

じゃあ、どう考えるでしょうか? きっと、 これまでに蓄積されてきた事実を根拠に考えようとするでしょう。 そうなると、普段の外出具合を考えるのではないでしょうか。すると、多くの人が外出し、集まっている場所が連想されるのではないでしょうか。そこは、東京であれば、渋谷や新宿など。きっと、多くの若者が楽しんでいる姿が同時に連想される場所でしょう。

こうした連想を経て、若者という属性が、「危険の芽」として考えられてしまうのではないでしょうか。

日本特有の事情

しかし、海外に目を転じて考えてみましょう。実際に海外で若者が責められているか、というと、そういった報道はあまり耳にしたことがないのではないかと思います。

コロナウイルスへの感染を自己責任だと思うか、という調査に対し、「自業自得だと思う」と答えた人は、米国1%、英国1.49%、イタリア2.51%、中国4.83%だったのに対し、日本では11.5%と非常に高い数値です。 つまり日本は、コロナに関しても自己責任論が蔓延している国なのです。

日本のこうした自己責任論の根底には、他者に迷惑をかけるわけにはいかない、出る杭は打たれる、という同調圧力が働いていることが考えられるのではないでしょうか。それゆえに、こうした同調を崩す人々は排除されてしかるべき、とされるのです。つまり、マジョリティー側にいる人間は、「自分たちとは違う行動をするから、彼らは感染した」と考える傾向があるのです。こうした同調圧力故の自己責任論を踏まえてみると、若者を「危険の芽」とする姿勢にも、同調圧力とメディアがリンクした可能性が見えてきます。かつて、政治家が頻繁に「夜の町」に言及し、それがメディアを通して拡大したことで、「夜の町」が悪者になったことがありました。これと同じことが発生しているのではないでしょうか。すなわち、 若者が頻繁に取り沙汰されることで、メディアなどを通して若者が「出る杭」、つまりは「危険の芽」として認識されるようになり、結果として、同調圧力によって多くから責められる結果となったのではないでしょうか。

事前の予測を重んじるから

以上のことから、予測に基づいて危険の芽を摘もうとする社会だからこそ、若者が一緒くたにされて、批判の的になっていた、と考えることができると思います。

日本は、同調圧力によって外出を防いでいた社会。もし、違う社会なら? 実際に外出する人の属性が明らかになる中で、本当に若者ばかりが外出しているのなら、そこで初めて若者が責められる社会になったかもしれません。

でも、データに基づき、分析の上に慎重に行うよりも、 そもそも事前に排除しようとする社会の性質ゆえに、外出しがちとされる若者が、「危険の芽」として考えられているのでしょう。

参考

西岡 暁廣, 2019, 「ジョック・ヤング『排除型社会』の図式的整理」『 同志社社会学研究』 23: 25-35
AGRAS「統計データで見る防犯・監視カメラ設置の犯罪抑止効果」10月27日閲覧
PRESIDENT Online「『「コロナ感染は自業自得』世界で最も他人に冷たい日本人の異様さ」10月21日閲覧
日本経済新聞「コロナで同調圧力が上昇? 一触即発で『謝罪』窮地に」10月20日閲覧